Brother in Toronto

トロントでは、にぎやかなYoung通りとBloor通りの交差点の近くに宿泊していた。

そこは実用的なホテルで、2室とキッチンがあり、簡単な自炊もできるようになっていた。
朝食は無料で、食べ放題のベーグルと、飲み物が付いていた。
ここに1ヶ月半ほど滞在した。

よく食事したのは、Young通りのBrotherという店だ。
街の食堂といったところで、値段も安い。
いつしか、これはフランス人の店と思うようになったが、なぜかわからない。

少しがらっぱち気味ののお姉さんが給仕をしてくれた。
最初に入った時、食事を注文すると「飲み物は?」と聞かれた。
特に欲しくなかったので、水でいいよというと、私の顔をまじまじとみて「水だって!」と叫んだ。
わたしはあわてて、飲み物も注文した。
あの「Water!」という声には、確かに威嚇が含まれていた。
これ以来、彼女はまず水を出してきたが、わたしも飲み物を注文するのを忘れなかった。

わたしがよく食べたのは、today’s spcial、つまり本日の定食だ。
ダブルポークチョップなんてのは、どでかいポークチョップが2枚、皿をはみ出していた。
わたしなどは、添え物のマッシュポテトを食べただけで、腹が膨れてしまった。
メインのポークチョップは、格闘して食べたものだ。

たまには違うのを食べたくなり、メニューを見てアメリカンステーキを頼んだ。
お姉さんは、「アメリカンステーキだって!」と叫んだ。
そこには確かに「そんなもの食うんじゃないよ!」という 思いやり(?)があった。
わたしはあわててtoday’s specialを頼むと、よしよしという顔をした。

とてもいい娘さんだったがあまり男好きのするタイプではなかった。
少し婚期が遅れている気味もあった。

わたしの体調が悪い時は、「Are you OK?」と心配してくれた。
ある時、わたしの隣の席に麗しいレディが座った。
彼女は荷物を置いて立つ時に、じっと私を見下ろして、にこやかに何か言ってから手洗いに向かった。
お姉さんが「彼女は何を言ったんだい?」と心配してくれたが、わたしにもわからなかった。
たぶん、「私の荷物に触らないでね」という意味のことを、笑顔でやんわり言ったのだと思う。

それ以来、トロントへは行っていない。
食堂のお姉さんは、無事にお嫁にいけただろうか。

Mundial

その年、アメリカでサッカーのワールドカップが開かれていた。

サンホセの繁華街の路上では、電気店のテレビに人々が群がって見ていた。
広場では、人々が輪になってボ-ルのリフティングをしているのをよく見かけた。
通りすがりの人が気軽に出たり入ったりしていたようだ。
女の子もやっていたが、あまりうまくはなかった。

ボゴタでは軽食や飲み物の昔ながらの店が多い。
そこを覗くとテレビを観戦する人々で満員だった。
昼の休憩時間には、労働者がボールを蹴りあっていた。
街ではサッカーボールの絵と、Mundial(ワールドカップ)という単語があちこちに書かれていた。
コロンビアは予選リーグの突破を期待されていた。

帰途、サンフランシスコに滞在していた時だ。
ホテルのテレビが、コロンビアのオウンゴールを繰り返し放映していた。
その異常さに気付き、注意して見ると、オウンゴールした選手がコロンビアに帰国後殺されたようだ。
そのオウンゴールで試合に負けたとはいえ、射殺とは・・・。
賭けに負けたマフィアのはらいせだったようだ。
数年前には、大統領選挙の候補者が演壇で麻薬マフィアに射殺された国だ。

コロンビアの人々の、人なつっこい顔を思い出していた。

サンフランシスコのピアの写真

サンフランシスコのピア

to Oslo

ストックホルムからスカンジナビア半島を横断してオスロ駅に着いた。

列車をおりて改札口の方へ歩いていくと、二人の若者が近寄ってきた。
男女の若者たちで、女性の方が声をかけてきた。
「あなた、パスポートを見せてくれる?」

わたしは登山用のザックに、くたびれた綿パンとブルゾンといういでたちだ。
冗談にもオシャレとはいえないが、不審に思われたことは一度もない。
だいたい、この連中は何者だ。
制服をきているわけでもなく、おそろいとはいえ、ずいぶんカジュアルだ。

わたしが黙っていると、
「パスポートを見せなさい」という。
しかたなくザックから出して見せるが、相手の素性が今ひとつわからないので、渡さない。
すると、若い女がパスポートを取り上げようとする。
そうはさせじと、パスポートを両側からふたりでひっぱりっこするはめになった。

男の方がなにやら無線で連絡すると、別な男が2人加勢にやってきた。
同じ服装をしている。
これは、ちょっとまずいかなと思って、素直にパスポートを渡した。
こうなるとそのままではすまず、駅の建物へ連行されてしまった。

狭い部屋で「取調べ」が始まった。
ザックから次々に物を出される。
さっきの女性係官が、丸まったセーターを勢いよく取り出す。
すると、セーターで巻いて保護していたカメラが空中を飛んで、床に落ちた。
「オーマイゴッド」と同情を買うように大げさに驚く。

これで係官がひるんだのを見て、つたない英語でへたくそな言い訳をする。
「あなたたちは制服をきているようには見えず、オフィサーとは思わなかったんだ。」
「以前、別なところで、警官のふりをした奴にパスポートを奪われかけたんで、またかと思ったんだよ。」

パスポートにも問題はなく、不審物もないので、彼らもわたしが悪党ではないと判断したようだ。
女性係官が「カメラは大丈夫かしら」と心配までしてくれた。
彼女もきつい表情が消えると、なかなか可愛らしい。
「なーに、そんな高いものじゃないし、だいじょうぶですよ。」
と、こちらも美人には弱い。

解放されて別れる時には、
「気をつけてね」
「さようなら」
と親しく挨拶をかわした。

オスロの港の写真

オスロの港

children in Bogota

中南米では働く子供たちをよく見かけた。
みな学校に行く年齢だが、家計を助ける方が大事なのは言うまでもない。

グアテマラの空港に着いたのは、朝5時だったが、ロビーにでると靴磨きが寄ってきて、磨かせろと言う。
子供たちもたくさんいたのに驚いた。

グアテマラ市内の食堂で夕食をとっていると、11,2歳の少女が店に入ってきた。
少女は、前に下げたかごに商品を入れてテーブルを回り、買ってくれる客を探していた。
日常の光景らしく、客も食堂の人も気にしないようだ。

ひとつのテーブルに男が二人、少し酒も入っていたようだ。
このろくでなしどもが、少女をひきとめて、いろいろ言っていたようだ。
近くの女性客が、食堂の人に知らせに行き、少女をそのテーブルから解放してやった。
わたしもなんとなく状況がわかり、少女を守ろうとする人々にほっとした。

子供の商売で多いのは、少年は靴みがき、少女は物売りだろうか。

ボゴタの下町でも、そんな子供たちがいた。
まだ10歳にもならない少年が、路上に座って、通行人に声を掛けていた。
わたしは、主人同様旅に疲れた靴を磨いてもらうことにした。
「アマリーヨ? カフェー?」と2度聞かれて、
やっと靴墨の色を聞いているのに気が付いた。
茶色の靴なので、明るい色(黄色)か暗い色(コーヒー色)かと言っていたのだ。
「カフェー」と言うと、小さな手で一生懸命靴を磨いてくれた。

ボゴタを離れる前にも、再び来てみると、別の少年と一緒に座り込んでいた。
もう一人の少年は慣れないらしく、太った元締のような男から小言を言われていたようだ。
前に磨いてもらった少年の前に靴を出し、「カフェー」と言った。
元締の男は客が来たので、少年たちから離れて行った。
叱られていた少年は、やりきれないような顔をしていた。

靴が磨き終わると、私は少しチップを上乗せした金額をわたした。
少年は嬉しそうに笑い、わたしは手を差し出して握手し、「グラシャス」と言った。

わたしは、この少年たちが大きくなって、ギャングやゲリラになっても少しも驚かない。

朝のボゴタ市内の写真

朝のボゴタ市内

to Kraków, Auschwitz-Birkenau

クラクフには早朝に着いた。
プラットホームに小さなコーヒー店があり、朝早くから開いていた。
とりあえずそこでコーヒーを飲み、寝不足の頭を目覚めさせた。

さて、改札口に出ようとしたのだが・・・。
プラットホームだけで、駅舎がさっぱりわからない。
ホームを横断する小道を見つけると、外に出てしまった。
あらためて外から駅を見つけ、駅舎に入った。
プラットホームのずっと端につながっていたようだ。

駅舎には多数の人が寝転んでいた。
夜通し、電車を待っていたのだろうか。
わたしも街が活動を始めるまで、しばらくここにいることにした。
そのうち係員が寝ている人の間を回り、起きるように促した。

外に出ると、近くに質素な食堂があった。
初めての土地ではよくあることだが、何をどう注文しようかと考えるうち面倒になった。
そこには入らず、屋台で売っていた大きなプレッツェルを買って食べた。

歩いてホテルまで行きチェックインした。
このホテルはLonely Planetで見つけたのだと思う。
古びた中くらいのホテルだが、どこかさびれた雰囲気が漂っていた。
それでもかっての名残か、従業員は教育がよく行き届いていた。
ホテルの前は野外ギャラリーのようになっていて、芸術的な雰囲気もあった。

荷物をおいてすぐに外出した。
アウシュビッツへのバスを見つけ、乗り込んだ。
冷たい小雨が降り出していた。

バスの隣席に30代後半かひょっとして40代かという女性がいて、到着するまで話した。
アメリカ西海岸の出身で、台湾で十数年英語を教えているという。
市外のキャンプ場にテント住まいをしているらしい。
バックパッカーというのか、こういう旅行者用のキャンプ場が都市にもあるのを初めて知った。
どこでも、安上がりの手段をとろうとすると、欧米の旅行者によく出会った。
普通の年配の人でも無駄な金を使わずに旅をしようとしている。

アウシュビッツではしばらくこの女性と同行していたが、そのうち別々になった。
昔写真でみたことのある光景を見て回った。
この人間の虐殺場が傾いた廃屋だったらよかったのにと思う。
いかにもドイツ人が作ったような頑丈な建物とシステマティックな雰囲気にやりきれなさを覚えた。
ドイツ人の勤勉さが、狂った方向に向かった時代だったのか。
帰りは野原の広がる道端で、雨の中を市内へ向かうバスをひとり待っていた。

ホテルに戻り、少し休んでから夕方起きると、体調がおかしくなっていた。
夜行列車で早朝着き、雨の中を動き回っていたため、風を引いてしまったようだ。

「風邪を引いたので、薬屋を教えてください。」
と、ホテルのフロントの女性にたずねた。
彼女は親切に近くの薬局を教えてくれた。
ついでに、備え付けのメモ紙に「風邪薬をください」と英語で書いた。
これを彼女に見せて、「ポーランド語になおしてください」と頼んだ。

薬局はすぐにわかった。
まるで学校の先生のような知的な目をした女性店員が応対してくれた。
彼女なら、英語でも通じたかもしれないと思いつつ、ポーランド語のメモ紙を渡した。
熱っぽく鼻水が出ることを単語と身振りで伝えると、彼女はアスピリンと風邪薬を選んでくれた。
薬はすべてドイツ製だった。

ホテルは11月まで暖房はしない規則らしく、寒い中で風邪に震えて眠りについた。

ホテル前のギャラリーの写真

ホテル前のギャラリー