to Kraków, Auschwitz-Birkenau

クラクフには早朝に着いた。
プラットホームに小さなコーヒー店があり、朝早くから開いていた。
とりあえずそこでコーヒーを飲み、寝不足の頭を目覚めさせた。

さて、改札口に出ようとしたのだが・・・。
プラットホームだけで、駅舎がさっぱりわからない。
ホームを横断する小道を見つけると、外に出てしまった。
あらためて外から駅を見つけ、駅舎に入った。
プラットホームのずっと端につながっていたようだ。

駅舎には多数の人が寝転んでいた。
夜通し、電車を待っていたのだろうか。
わたしも街が活動を始めるまで、しばらくここにいることにした。
そのうち係員が寝ている人の間を回り、起きるように促した。

外に出ると、近くに質素な食堂があった。
初めての土地ではよくあることだが、何をどう注文しようかと考えるうち面倒になった。
そこには入らず、屋台で売っていた大きなプレッツェルを買って食べた。

歩いてホテルまで行きチェックインした。
このホテルはLonely Planetで見つけたのだと思う。
古びた中くらいのホテルだが、どこかさびれた雰囲気が漂っていた。
それでもかっての名残か、従業員は教育がよく行き届いていた。
ホテルの前は野外ギャラリーのようになっていて、芸術的な雰囲気もあった。

荷物をおいてすぐに外出した。
アウシュビッツへのバスを見つけ、乗り込んだ。
冷たい小雨が降り出していた。

バスの隣席に30代後半かひょっとして40代かという女性がいて、到着するまで話した。
アメリカ西海岸の出身で、台湾で十数年英語を教えているという。
市外のキャンプ場にテント住まいをしているらしい。
バックパッカーというのか、こういう旅行者用のキャンプ場が都市にもあるのを初めて知った。
どこでも、安上がりの手段をとろうとすると、欧米の旅行者によく出会った。
普通の年配の人でも無駄な金を使わずに旅をしようとしている。

アウシュビッツではしばらくこの女性と同行していたが、そのうち別々になった。
昔写真でみたことのある光景を見て回った。
この人間の虐殺場が傾いた廃屋だったらよかったのにと思う。
いかにもドイツ人が作ったような頑丈な建物とシステマティックな雰囲気にやりきれなさを覚えた。
ドイツ人の勤勉さが、狂った方向に向かった時代だったのか。
帰りは野原の広がる道端で、雨の中を市内へ向かうバスをひとり待っていた。

ホテルに戻り、少し休んでから夕方起きると、体調がおかしくなっていた。
夜行列車で早朝着き、雨の中を動き回っていたため、風を引いてしまったようだ。

「風邪を引いたので、薬屋を教えてください。」
と、ホテルのフロントの女性にたずねた。
彼女は親切に近くの薬局を教えてくれた。
ついでに、備え付けのメモ紙に「風邪薬をください」と英語で書いた。
これを彼女に見せて、「ポーランド語になおしてください」と頼んだ。

薬局はすぐにわかった。
まるで学校の先生のような知的な目をした女性店員が応対してくれた。
彼女なら、英語でも通じたかもしれないと思いつつ、ポーランド語のメモ紙を渡した。
熱っぽく鼻水が出ることを単語と身振りで伝えると、彼女はアスピリンと風邪薬を選んでくれた。
薬はすべてドイツ製だった。

ホテルは11月まで暖房はしない規則らしく、寒い中で風邪に震えて眠りについた。

ホテル前のギャラリーの写真

ホテル前のギャラリー

to Santa Fe de Bogotá

空港に着いた時、時差で時計が1時間進んだことに気付いた。

夜8時だと思ったら夜9時だった。
infomationでも使えればと思ったが、もうやっていない。
来る前にメモしておいたいくつかのホテルから、ここに行こうと決めた。
予約などないが、どうにかなるだろう。

タクシーにホテルの名前を言えば、連れてってくれるだろうと考えたが、乗り場がわからない。
変な爺さんがニコリと笑いかけてきた。
こちらに近付くと、英語で何やらしゃべりだしたが、どうも胡散臭い。
再び空港内に逃げ込むと、爺さんは追っかけてくる。
警備員か警官か2,3人いたので、そちらへ向かった。
爺さんが逃げるだろうと思ったが、まるで怖気づかない。
悪い奴でもなさそうだと思い直して、話してみると、そのホテルへ連れていくという。

とりあえずホッとして、爺さんのあとについていくと、タクシーが客待ちで多数並んでいた。
どのタクシーだろうと思っていると、そこを抜けた先にオンボロ自動車が停車していた。
まさかと思ったらそれだった。
要するに、普通のタクシーがいっぱいいるのに、白タクにつかまったわけだ。

しょうがないと思って乗り込んだが、爺さんはまだ金が欲しいらしく、他の相客を誘うが、てんで相手にされない。
車が走り出した時には、もうどうにでもなれと思った。

車は夜の闇を市内に向けて走り、街の中へと入っていった。
そのうち中心部からはずれたところにあるホテルに到着した。
と、ホテルからばらばらと人が跳び出てきた。
警備員のようで、手に手に銃を抱えている。
タクシーでもないオンボロ自動車に警戒したのだろうか。

爺さんには約束どおり10$札を渡した。
距離からするとずいぶん安いように思えたが、こちらのレートでは高かったようだ。
爺さんは警備員に何か文句を言われていたようだ。

少しぼったくられたかなと思ったが、英語が分かるので助かったと、前向きに考えなおすことにした。
夜中の飛び込みの客ながら、きれいな部屋をあてがわれて、初めての南米の夜に眠りに就いた。

ボゴタ市内のホテルの写真

ボゴタ市内のホテル

 

from Bratislava

ブラティスラバの駅で、電車を待っていた。
ダイヤが乱れているようだ。
ホームで何やら放送があるが、よくわからない。

列車が入ってきた。
少し不安を感じて、周りを見ると女の子がリンゴをかじっていた。
列車を指さし、「プラハ?」と聞くと、黙ってうなずいた。

始発なので、列車はそれほど混んでいなかった。
席に座ると、先ほどの女の子がはす向かいに座った。
しばらくすると、どちらからともなく、簡単な英語で話し始めた。
彼女はブルノの大学生で、家のあるブラティスラバから大学へ戻るところらしい。
スラブ的な顔立ちのかわいい女性だった。

「大学では何をやっているの?」
「garden architectureよ。」
「スロバキアと言えば、以前、日本のオーケストラの指揮をしていたコシュラーを聞いたことがある。」
他にもスロバキアについて知っていることをあげようとすると、
「スロバキアにはたくさんの温泉があるわ。」と教えてくれた。

「卒業したらどうするの?」
「できれば、他の国にでも行きたいのだけれど・・・。」
「カナダあたり?」
彼女は黙って笑っていた。

東欧が「自由化」して間もないころだった。
スロバキアは豊かなチェコと分離して、街に活気がないように見えた。
と言っても西欧的な意味で活気がないので、その素朴なところはわたしにはむしろ好ましかった。
だが、人々は将来の展望が見いだせないのだろうか。
そういえば、トロントでは東欧から移住して来た人々をよく見かけた。

わたしたちは黙って車窓の景色をながめては、思い出したように喋ったりしていた。
そのうち、列車はブルノに着いた。
わたしは終点のプラハまで乗っていく。
彼女はホームに降りてからも、名残惜しそうに手を振ってくれた。

市内を流れるドナウ川の写真

市内を流れるドナウ川

night flight from L.A.

グアテマラの古都アンティグア

夜のロサンジェルス空港。
グアテマラ行きの便を待つ待合室は、混むというほどではないが、にぎわいに満ちていた。
ほとんどが中米の人のようだった。
そこでひとり待っているラテン系の女性が目を引いた。
ネイティブの素朴な美しさを備えていた。
そばでは別な家族が老人を囲んで談笑していた。

出発の時が近づき、その老人が突然泣き出した。
老人はひとり旅立っていくのか、見送りの家族と別れを惜しんでいたようだ。
まわりの人々は何事かと思い、集まってきた。
彼らは、勝手にしゃべり合い、見ず知らずの老人を慰めていた。
あの美しい女性までやってきて、近所の老人の世話でもするように慰めていた。

待合室は、ひと時、彼らの故郷となったようだ。

中米の人々にとって、アメリカは出稼ぎの国かもしれない。
アメリかに住む家族に故郷から会いに来た老人が、ひとり故郷に戻る光景だろうか。

見ず知らずの老人を慰める人々の心は、天使のように見えた。